
日本人留学生としてアメリカで生活する中で感じたことを
短い文章で自由気ままに記していこうと思います。
専ら主観的であしからず。(新しいものは上に載せていきます。)
ブッシュ大統領がある日本人大リーガーについてジョークのコメント。
1.彼を追いかける記者の数は私のより多い。
2.でも私も彼も、英語での回答は苦手である。
両方とも実に的を得ているコメントではなかろうか。
こちらのバスの運転手。親切な人も確かにいるが、客の応対には無愛想、運転中のブレーキの踏み方があらい、右左折ではよく縁石にのりあげる、他車に対してはクラクションをけ頻繁に鳴らし悪態をつくなどなど、客にとってはあまり居心地が良くない要素をもったドライバーが結構いる。
日本。決まり、決まりも良いが、決まりもお互いの立場を理解した上で状況に応じて作用すべきもの。
アメリカに住んでいると、決まりを必要以上に遵守し、あそびが全くない機械的日本を感じることがある。お隣の国、韓国でもその点はアメリカ程ではないにしろ、それなりの柔軟性はあるようだ。何でも程々が一番。
英語をしゃべれることが、知的な事としてとらえられているようでは、日本もまだまだ閉鎖的である。
朝ジョギングをしていると、初老のおじさんが、「エクササイズしているの?」と聞いてくる。「はい。」というと、「いいね。」とニッコリ。このような会話が知らない人と自然にできるのは素敵なこと。
英語習得は筋肉を鍛えるのと似ている。毎日少しずつでも欠かさず訓練していないと駄目。
今やっているのはオンラインのニューヨークタイムズの記事や歴史、ドキュメンタリーなどいくつかのジャンルの本を並行して速く読もうとしたり、リスニングではニュースをはじめ戦争ドキュメンタリーなどを(図書館で)借りて見ている。そして単語は日本のTOEICや英検の単語本をノートに書いて覚えている。地道に地道に。9月、TOEIC試験予定。
日系書店で文庫本を買った。「カバーをおかけしますか?」と店員さん。とても新鮮な対応に感じる。こちらで本にカバー!?ありえない。懐かしい三省堂のカバーをかけてもらった。
2人のアジア人おばさんが会話している姿を遠くから見ていて、手の動きや頷き方から「日本人だろうな。」と思いながら彼女らの前を通り過ぎると、案の定日本語が聞こえてきた。日本人としての独特な身振りや雰囲気というのは存在するようだ。
こちらの道を走っていて迷った時によく感じることだが、標識が少なくあったとしても不明確で、標識のおかげでさらに迷う場合も結構ある。
車のマナーも場所が少し変われば、ちょっとした変化をみせる。私が住んでいる辺りは、我先と進む車が多いが、1時間も車で走り別の町にいくと、歩行者を大事に優先してくれる車を多く見かけたりする。結構不思議。
目の前を走っている車が急に速度をおとし、ウインカーをだすわけでもなくフラフラと路上駐車しようとする光景はこちらでよく目にすること。他人をケアーできないマナーの欠如を感じるひと時。
エンジンをかけながら車をショッピングモールの駐車場に停めていると、クラクションを鳴らしたり中には私の運転席の窓のところまできてノックし、「今出る?」と聞いてくる。日本人的な反応としては彼らの行動は中々図々しいなと感じる。まあいいけど。
大学に通ったことにより、知識に対する興味が色々な方向に広がったことは事実。大学が終わった今、興味のおもむくままに書物を選べ、それを読んでいる時は充実感を得られ気持ちが良い。
アイビーリーグ。外と内ではかなり温度差があるよう。
学校のジムで腹筋台を使っていると、真後ろに立って少し待っていた生徒が、「あと何セット?」と聞いてくる。時には「交代で使っていい?」と聞いてくる生徒もいる。これはこちらでは普通。私自身、誰かが使っている時、真後ろに立つことさえ結構気が引けるが。
男性が女性とすれ違う時、その女性がタイトななジーンズをはいていたりすると、男性は振り返りおもむろに女性のお尻に注目する。中には立ち止まり女性に声をかけたりする男性もいる。下品といえば下品だが、男性の正直な行動と言えようか。
アメリカ史上最悪の学校銃撃事件。銃の規制と同じように生徒の心の教育も大事である。学校での心の教育の欠如は明白。大学といえども頭の教育を提供するだけでは駄目。
両親を日本人にもつ、アメリカ生まれの高校1年生の生徒に、英検1級の単語集を見せてみる。知らない単語が多いと言う。そんなものなのかな。
こちらのバスのドライバーといえば、運転はかなり荒いし、時間通りに来ないことも結構ある。ただ降りる時などに、乗客の「サンキュウ。」の言葉に対して、ニコッと笑い、「気をつけてね。」と言葉を返してくれるドライバーを見ると、素敵だなと単純に思う。
自分と反対意見をもつ人との議論をする機会を、日本は学校教育の段階からもっと取り入れるべきだ。グループ意識が強い為、いつも皆同じ意見に統一する傾向が大人になっても自然に身についている。その為、反対意見に直面すると、議論を飛び越して、喧嘩腰や感情的になってしまうことが多い。英語を身につける以前の課題ではないか。
アメリカ留学生活を通して学んだ一番大事なことは、人生において何が大切で大切でないのかが、頭ではあるが、よりはっきりとしてきたこと。これは今回海外留学という多大な時間と金を投資して自分が得たものとしては、最高に価値あるもの。今後の生き方に役立てていかなければならない。
アメリカ人の人との接し方。アジア人にとって学ぶことは確かにあるが、世界のスタンダードとしてとらえるのには、まだ未熟であろう。自己主張がはっきりしているせいもあろうが、人間のエゴが時折強く見えるから。〜人と区別する前に、お互い良い習慣を学びあって実践してくのがベストだな。人に対する心からの思いやり。これが一番大事。そんな偉そうなことをいっている私自身、エゴの強さでは負けてはいない。是非直したいものだ。
教授になるのには学歴さえあれば、成れるものなのかな。
クラス中の生徒の発言内容は、自分自身の意見を占める割合が質問の割合をはるかにしのぐ。それに相手の意見に反対する態度が自由に加わるのだ。典型日本人的感覚からみれば、彼らは子供の頃からよく訓練されてきたのだろうなと思ってしまう。
教授と生徒の会話はこちらでは見事なキャッチボールとなっている。生徒が質問し教授が答える。それに対して生徒は、さらなる疑問をぶつけたり、教授の意見に対して納得しなかったり反対意見をぶつけたりと、生徒も簡単にはひかないことが多い。これは我々も真似たいところだ。
教えるということが、ただ説明することなのであれば、本を読んでるほうがまだいい。
教室の一番前の中心、教壇の真ん前に座り、教授の講義に熱心に耳を傾け、積極的に質問や意見を述べ、授業後は教授と話をする、そんな生徒はクラスに1人や2人、必ずいるものだ。
イギリスのBBCニュースの記者が、外が寒い為両手をコートのポケットの中に突っ込んだまま、アメリカの次期大統領候補者について報道していた。
大学にとっては、大学の名声にふさわしい質の高い授業を提供できる教授よりも、大学の名声にふさわしい高学歴の教授のほうが大事なのかな。両方を備えた教授は少ない。
ダウンジャケットのフード。東京では飾りであるが、こちらではしっかりと頭にかぶり実用的だ。2月にはいり、宇宙服のように頭をすっぽりフードで覆った(顔にはマスク)人々をよく見かけるようになった。
地下鉄のドアが閉まろうという時、「待ってー!!」と声を張り上げながら階段を駆け下りてくる乗客がよくいる。それで待ってくれる場合もあるので、やってみる価値はあるようだ。
教授といえば、主に「専門分野の学問の研究」と「大学生に教えること」が仕事といえるだろうか。この学問の研究をする人と、生徒に教える人とを分けることはできないものだろうか。そうすれば、名のある大学では間違いなく質の高い授業を期待できるのではないだろうか。安易な考えではあると思うが、生徒の立場の純粋な気持ちである。
店のレジでよくある光景。客が買った商品を店員がビニール袋に入れる時、ただ突っ込むだけでカウンターの上に無造作に置きそれを客に渡そうとする動作もない。客は商品の入ったビニール袋を自分で手元に引き寄せ、ビニールの取っ手を握りやすいように品物をきちんと入れなおさなければならない。日本だったら取っ手を持ちやすいように丸めるところまでやってくれる店員も多い。楽しい違い。
インスタントコーヒーをアメリカのスーパーで買い、種類を間違った為交換してもらおうと思いつつ1ヶ月が過ぎた。そしし駄目もとで持っていき、交換できないか聞いてみる。レシートを持ってないんだけどという私の言葉には耳を傾けず、又いつ買ったのかも聞かず即座に交換オーケー。アメリカらしい。
コース最初の授業で教授がまだ講義中に退場してみた。品定めのこの時期、講義をスタートして直ぐに退場する生徒も多いのだが、実際やってみると中々勇気がいる。
日本語新聞に載っていたある会社の求人応募資格。「〜年〜月〜日以降〜年〜月〜日までに生まれた方。」と最初に書いてあるのを見て奇妙な感じがした。あっそうだ。日本はまず年齢がものをいうんだった。36歳。ワオ、年だな。(苦笑)
アメリカの大学で発言する生徒達や教授達、又テレビなどのニュースやトークショーを見ていると、アメリカ人はお互い意思疎通する上での道具として「会話をすること」に、我々日本人よりはるかに慣れている感じがする。一見大人しそうな人間でも、会話の仕方は心得ている印象を受ける。一方で少し喋りすぎと感じる時もあるが。
今年も残りわずか10日余り。日本であれば、新年までのカウントダウンはもう始まっているムードで年末独特の慌しさを肌で感じる。。。しかしこちらはそんな気配は一切無し。少し寂しいな。
車線変更や右左折時、ウインカーをださない車、道をゆずってもらっても手を挙げず当然のように入ってくる車、信号が緑に変わった瞬間、ピーッとクラクションを鳴らす後続の車、など横着なアメリカ人の一面をみる。もちろん、歩行者優先など譲り合い精神をもった車もいるが。
トイレに入り手を洗う。これはどの国でもある意味常識だろうが、その後トイレに備え付けのティッシュで手を拭き外へでる。その行為を欠かすアメリカ人は殆ど見たことがない。私は手を洗いそのまま出ることがよくある。これは駄目なマナー!?
学ぶとは与えられた知識について考えたり感じたりすることだ。一概にはいえないが、学校は与えられた知識を頭に一時的に入れる作業で忙しい時が多い。
学校の授業料について質問があり大学に電話。昼12時過ぎ。昼飯時でつながらないかなと少し思うが、つながった。「少々お待ちを」と言われたものの、その後すぐ不通になる。電話の為、正確な状況はこちらからは見えないものの、このようなことはよくある。
マンハッタンの北を走る電車。途中車両点検とかで10分程停まる。その間、「終わりしだいすぐに出発します。」という早口の放送1回のみで、動き始めた後それに関するアナウンスは全くない。そのあたり、アメリカの横柄さ、横着さを思わず感じてしまう。1分2分遅れただけで、謝りのアナウンスがある日本と比べてはいけないが。
日本人駐在員の子供達。環境のせいかとても素直な子が多い。そして大人に対して敬語を使う子供は少ない。又自分の学力やその他の事に関して自信をもった発言は多い。生活環境というのはたとえ数年でも子供には大きく影響を及ぼすのかな。子供の教育に最適な場所はどこだろう。
電車の中パート4
いすの一番左端に座っていると、アコーディオンやギターを持ったメキシコ人が何人か入ってくる。お金をもらうために演奏開始だ。電車の走行音は何のその、歌声が車内いっぱいに響き渡る。読書中であったが、迷惑だなーという気持ちは捨てようとする。誰もうるさいと文句を言う者はいない。
電車の中パート3
かなり混んでいる中、電車が止まりドアが開く。降りようとする黒人女性がドア近辺に立ったままの乗客へ一言叫ぶ。「降りる人がいるわよ!ドア近辺は空けて!」
電車の中パート2
座席が少し空いており、中年女性がやってきて「もう一人座れる?」とすぐ近くに座っている乗客に声をかける。オーケーの返事とともに、「サンキュウー。私のかばん重いのよー。」と又ニコッとしながら席のスペースをより空けてくれたその乗客に声をかける。このようなさりげない会話は素敵だ。
電車の中パート1
隣に座っていたヒスパニックのカップル。一つのヘッドホンをシェアして曲を聴きながら、大きな声で歌っている。日本で日本人がこれをやったら、たちまち注目の的で変人扱いかな。しかしこちらではよくある光景で誰も気にしない。電車の中の乗客の声のボリュームは日本と比べかなり大きい。
生徒の中で教授の言っていることに対して頻繁に頷いている生徒がたまにいる。そのような生徒達は大体アジア人留学生。これも授業へ参加する一つの方法といえるかもしれない。ちなみにアメリカ人生徒はこの方法をとらない。うなずく暇があったら発言するという感じであろうか。
「何か質問はありますか?」と聞かれ沈黙のクラスはまず存在しない。教授からこのようにふられる前に大抵手が挙がる。時には教師が喋っているのをさえぎって質問や意見を述べる者もいる。だから教授はある意味楽な部分もある。生徒に自由に発言させていればそれだけで授業時間は過ぎてゆくから。でもそれでは教授ではない。
ここ最近子供の風邪がうつり咳がでるのだが、以前大学の図書館で本を借りる手続きをしている時にたまたま口を手でふさがずに咳を少しすると、黒人女性の職員がおもむろに嫌な顔をして、「口を手でカバーしなさいよ。」と怒られた。こちらでは咳は普通以上に気をつかわなければいけない感じがする。
こちらの歩行者は信号無視をするのはかなり当たり前。特にマンハッタンでは信号は歩行者にとってあってないようなもの。短い通路ごとに信号がついているので仕方がないといえば仕方がないが、日本に帰国した時、信号をしっかり守る日本人達を見ると、律儀だなと感じるくらい私の中でも信号無視は当たり前となっている。いかん。
地下鉄でドアが開いた時、並んでいる人々を無視してスーッと先に乗車する人はこちらでもよく見かけるが、空いている席を競争のように確保しようとする乗客はほとんど見受けられない。空いている席があっても、立っている乗客が結構いるくらいだ。日本ではどうであろうか。
大学図書館内のコンピュータールームでプリントアウトの機械を使っていると、次に待っている生徒は必ず私が見える位置に立ち、私に待っている人間がいることを知らせてくれる。この辺は中々はっきりしている感じを受ける。
自然と私も待っている時の距離や位置は彼らと同じになってくる。これは日本での距離ではない。中々面白い。
かなり豪快な音をたてて鼻をかむのは、恥ずかしいことではないらしい。教授も講義中、花粉症のせいか頻繁にプーっ!プーっ!と大胆な音をたてて鼻をかんでいた。
ニューヨークの地下鉄は基本的に暑く、汚く、臭い。駅によっては廃墟のような所もある。タイムズスクエアのような華やかな場所とはある意味対照的だ。又工事中等で電車のダイヤが乱れたり、突然各駅停車が急行に変わったりで乗客をよく混乱させる。我々も慣れてはいるし、色々な事情があるだろうが、改善はするべきであろう。
授業の最初、宿題を教授に渡してすぐに教室を去る生徒、そして授業の途中に去る生徒、ちょっと日本人的な!?感覚でいえば、教授の顔色を気にしてしまう感じであるが、その辺は中々堂々としている。
良い教授からは何かを生徒に伝えようとしている姿勢が感じられる。そうすると自然と講義も生徒の注意をひくものとなる。持っている多くの知識をだらだら説明してもしょうがない。
留学生活も半年から1年目ぐらいまでは海外で生活しているという感覚が続くが、それ以降は自分の周りの環境は全て当たり前となっていき、日本で生活する感覚とあまり変わらなくなる。もう2年以上帰国していないが今度日本へ帰る時は逆カルチャーショックを感じるであろう。アメリカ生活も今年の11月で丁度4年。
学校で授業が終わりの時間になると、まだ教授が喋っているのに、平気でテキストやノートをパタパタと閉じて音をたてはじめる生徒が多い。
教授が生徒に発言する場を与えすぎると、次々と手があがり、よく発言する生徒に授業を持っていかれ前に進まない時がある。こちらでは教授が話している最中も積極的に手をあげて発言をしようとする生徒は多い。
会社の社員の不祥事や、商品の欠陥などで、幹部連中が起立して一斉に頭を下げている姿を日本のテレビでよく見かけるが、こちらアメリカではまず考えられないであろう。私がやったわけではない、私はその場にいなかったと自分の立場を主張するアメリカ個人主義と団体責任を負う我々日本特有のグループ主義との違いであろうか。
アメリカ人の生徒はよく笑う。教授のジョークが時には少数の生徒にしか伝わらないときでも、目立つのは一向に気にしない様子で豪快に笑う。映画やTVを見ていて、笑う程でもない所でも声をあげて笑う生徒は多い。コンピュータールームでメールを読んでくすくす笑う生徒がいてもあまり不思議ではない。そんな中、授業中私も声をだして笑いやすい。これは良いことだと思う。
大学の教室でもそうだが、特に劇場などで通路側から中の席に入るとき又逆に出るとき、アメリカ人の行動は我々と比べ中々堂々としている。中にはExcuse Meもなく、いきなり入ってくる。出るときも2時間位我慢できないのかと思うが、講演中多くの人々がトイレや他の用事に立ち又戻ってくる。通路を歩いているときも見ている人の邪魔になっているのは明らかであるが背筋を曲げるようなことはしない。これは別にケアしなくてもOKとなっている習慣なのかな。
授業に遅れてきた生徒。講義中の教授の前を通る者が結構多い。これは失礼にあたらないのか。授業中にガムを噛むのはごく普通の光景。日本であればどうであろうか。
クラスの中で誰かが発言すると、周りの生徒達は一斉に発言している生徒の方へ顔を向ける。ある意味自然なことだがこちらではそのアクションがかなり大きく感じる。
こちらの車のドライバーはすぐにクラクションを鳴らす。本来クラクションは事故を防ぐ為の警笛であるべきだが、早く行け、危ないじゃないかなどという文句のかわりが多い。これだけ頻繁にクラクションを鳴らせば、日本では喧嘩になるであろう。その辺こちらでは言いたいことを言うの中にクラクションははいっているのかもしれない。
授業中、あくびをしたり背伸びをしたりするのは、教授に対して失礼にはあまりあたらないようだ。あくびはあくびで授業が退屈とはあまりとられないようだ。
クラスで発言しない生徒もあてられると、「I don't know.」、という言葉はまず返さない。中身がなくてもそれなりにつくろって答えようとする。我々アジア人留学生の多くは自分の意見がはっきりあっても、「I don't Know.」を間によくいれる。自分の意見をはっきり言うことに対して無意識のうちに居心地悪さを感じるのだろう。
海外だからであろうか。周りの生徒達は20歳前後の若い子達ばかりなのに(たまに年配の生徒もちらほら見かけるが。)、自分がおっさんであるという自覚が全くない。これは良いこととしてとろう。日本の大学であれば、かなり年齢を感じ、自意識も過剰になってしまうかもしれない。